文明科学研究所音と文明>寄せられつつある絶賛の声

 

 

『音と文明』に寄せられつつある絶賛の声

 >> 脱帽
   福島 等 様

 >> 「音と文明−音の環境学ことはじめ−」を読ませていただいて
   福地 一 先生 (独立行政法人通信総合研究所 CRL・TAO統合準備室長)

 >> 大橋哲学の集大成
   下原勝憲先生 (ATR人間情報科学研究所所長)

 >> 認知言語学のパラダイムと『音と文明』
   山梨正明 先生 (京都大学大学院 人間・環境学研究科 言語科学講座 教授)

 >> 『音と文明』読後感
   根岸廣和 先生 (株式会社ダイマジック 顧問・英国エセックス大学 客員教授)

 


脱帽
福島 等 様

 大橋はいまなお氷壁を攀じ登っている。見上げた事だ。
 昔、学生時代の彼は、音楽においては群を抜いた水準にあり、バラの栽培も心得ているなど繊細な趣味人であった。話し好きで、寮では他の部屋をよく廻っていた。
 やがて中堅の研究者としての彼の鋭利な発見が新聞などで紹介されるようになり、その相貌も、かつての柔和さが消え、恐いほどきつくなっていて、学者の真剣な道のりを窺わせるようになっていた。
 ただ山城組や民俗音楽の分野については、私は趣味の継続であろうぐらいに想像していたし、彼は二刀流の使い手らしい、単純にそんな風に思ってもいた。
 だからこのたびの著作には驚愕した。壮大な文明論が展開されている。並みの学説ではない。膨大なフィールドワークの収穫と理工的実証解析で有無をいわせぬ根拠を細密につくりながら、近代哲学を批判的に見直す論理が据えられていく。こうした広域の多角的な研究から独自の長大な発想が生み出され、それはとても刺激的で興味をそそられる。
 ただ、全編にすごい緊張感がみなぎり、通例の文明論とは違い気楽には読めない。とくに自然科学の知力のない私には理解力の超える頁がたくさんあった。それでもあちこちに散りばめられているおもしろい知見に助けられてともかく通読した。そしてそれまでの私の漠然とした感想と同じようなことが最後の「結びの論考」にまとめられていたので嬉しかった。
 重要な文献となるのではなかろうか。大橋は一つの高峯を極めた。
 しかもこれから先も老熟の能役者などに見習ってずっと活動を維持する心構えを宣明している。この姿勢もまた、サラリーマンがいち早く定年を迎え学者も相撲取のように寿命が短いと評されるこの国の風土にあって、示唆するところ大であろう。
 若い日のあの遊泳する精神が彫琢を重ね強靭となり雄飛していることに心から敬意を表したい。

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「音と文明−音の環境学ことはじめ−」を読ませていただいて
福地 一 先生 (独立行政法人通信総合研究所 CRL・TAO統合準備室長)

 「たかが音、されど音」、そう実感させられる大著です。ともすれば、技術開発の歴史の長さゆえか、ディジタルのビットレートでの比較のゆえか、高精細映像や立体映像の技術開発に比べると地味な扱いを受けてきた「音」、「映像が通れば、音はなんとかなるよ」的な扱いがされてきた「音」も、この大著によって面目躍如といったところでしょう。私も音響信号の有益性や重要性は、ビットレートでは比較し得ない本質的ななにかがあると常々感じてきていましたが、情報環境が及ぼす人間の脳への影響が科学のまな板にのりつつある現在、そういった人間の知覚メカニズム解明のアプローチなど、音環境の研究が新たなステージを迎えていると思われます。その点で時宜に適った書籍ではないでしょうか。
 この大作は、どの章をとっても、借り物ではない大橋先生の主張が展開され、浅学非才の私の追従を許さない趣趣がありますが、人類文明史にも造詣が深く、芸術文化、科学技術の双方に実践実績をもつ、大橋 力先生にしか書けないユニークな書籍であると思います。寡聞にして知識を有していませんが、多分芸術家、科学者として大成する者でしか体得できない知見の集大成だとすれば、国際的にもまれにみる著作ではないでしょうか。事情がゆるせば、英訳等によって日本生まれの音情報環境学の知見を世界に発信していただきたいと思います。
 第三部は、これまでの大橋先生の「音」をめぐる芸術家、科学者としてのエポックが物語り風に展開されていて、また、この間、折に触れてお教えいただいたお話が随所に織り込まれており、楽しく読ませていただきました。
 21世紀は情報の伝送能力が飛躍的に向上することは間違いありません。我々が自由に扱えるメディアの種類もますます多種・高性能化してきています。同時に、人間の知覚機構を定量的な計測にのせる技術も急速な進展を見せています。そういった状況の中で、情報メディアは、人間生存に不可欠、あるいは生きる喜びを感じさせる存在にもなり、また、人間のコミュニケーションニーズやビジネスニーズを充足する多様なメニューに富む存在になるとと思われます。
 その際には、「音」、「映像」、その他のメディアのヒト、個人、社会、地球への影響を考慮して、それらを望ましい形で社会へ提供することが求められます。その点で、この「音」に関する秀作は大橋先生のこれまでの業績の集大成となる同時に、新たな音を含む情報環境構築への扉を開くことになってしまったと思います。

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大橋哲学の集大成
下原勝憲先生 (ATR人間情報科学研究所所長)

 大橋先生の情報環境学の思想と研究そして実体験を「音」を中心にまとめられた大橋哲学の集大成である。極めて独創的であることは勿論、現代そして後世の人々に多くの示唆を与える名著であり、大橋先生の慧眼の才が遺憾なく発揮された珠玉の書であると思います。また副題に掲げられているように「ことはじめ」であることに大きな意味があると思います。後世に継承される名著としてのみならず、現在の私たちや将来を担う若い人たちへの啓蒙の書としての波及効果が大いに期待できるからです。その意味では、一つは是非英文化すべきであろうと思います。すなわち、地球人類・文明に関わる智恵として日本人のみが独占するべきではないからです。もう一つは、中高生を対象とした、より平易な入門書を望みたいと思います。御著書は気品に富み、格調高い語りの点でも名著であると考えますが、中高生にとっては若干表現が難しいように思うからです。勝手なことを申し上げましたが、大橋先生の一ファンとして今回のご上梓を心よりお慶び申し上げます。

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認知言語学のパラダイムと『音と文明』
山梨正明 先生 (京都大学大学院 人間・環境学研究科 言語科学講座 教授)

(長尾学長に京都大学に招かれて行った講演会でのご発言)

 まず、私はチョムスキアンではありません(笑)。
 大橋先生のご本の、特に言語と進化のところを大変興味深く読ませていただきました。 私は、「認知言語学」という新しい言語学のパラダイムを背景に、身体性にかかわる言語現象、 特にメタファー、擬音語・擬態語、共感覚、意味変化などを中心とする言語現象を研究しています。 最近の認知言語学の研究では、離散的な記号系としての日常言語は、主体と環境、 主体と外部世界との動的なインタラクションに基づく身体化された経験を介して、 発現してくると考えられています。 つまり、認知言語学のアプローチでは、日常言語の記号系は、主体と環境とのインタラクションに基づく 身体化された経験のアナログ的なパターンを反映する非離散的な世界から、 創発的に立ち上がってくるという立場をとっています。 このアプローチは、脳の言語系の機能に関係すると考えられている部位も、 実際にはその部位が単独で機能するのではなく、 主体と環境とのインタラクションによる身体的な経験を反映する感覚運動系、情動系のシステムと 非モジュール的に連動して機能しているという立場につながります。 この立場を裏付ける広範な証拠が、最近の認知言語学と認知科学の関連分野で報告されています。
 ですから、大橋先生の今日のお話と『音と文明』に書かれている言語と進化にかかわる問題意識は、 認知言語学のパラダイムを背景とする問題意識と大変よく適合すると思います。 むしろ、先生の先程の「チョムスキアンにどうこう言われるかもしれない」という台詞が、 大変控えめな京都風の皮肉に感じられます(笑)。
 チョムスキーの言語観というのは、あまりにも形式的で、記号・計算主義的な言語観であり、 非常に形式的でトップダウン的なシンタクス中心の文法観を重視し過ぎています。 この言語観によるならば、日常言語は、論理学や数学の記号系のように、 閉じた系としての文法規則と辞書によって、記号計算的に規定可能であることを前提としていますが、 この種の言語観は、認知言語学を主流とする最近の言語学のアプローチでは否定されています。 実際の言語現象の発現過程を見た場合、そこには規則依存型の記号列の系が存在するのではなく、 主体と外部世界の相互作用を反映する事態認知の部分的なパターンを、 先生の言葉をお借りするなら「加算型」のモードで規定していく方向性が認められます。 日本語や他の言語の通時的、個体発生的な発現過程を見た場合にも、 主体と外部世界の相互作用を反映する事態認知の反映としての前記号的、 前概念的な経験のパターンが並列的、加算的に記号化されます。 埋め込み的構造や再帰的な構造は部分的に発現しているに過ぎません。 しかし、チョムスキーの規則依存のシンタクス中心の言語学では、 この後者の記号的な側面が肥大化されています。 チョムスキーの言語学は、有限の規則の組合せで無限の記号列を生成していくという、 トップダウン的な記号計算主義の言語観と記号観を前提とするために、 人間と環境の身体性を反映する実際の言語現象から遊離した文法ショーヴィニズムの言語観に陥っている訳です。
 大橋先生の『音と文明』における言語と進化に関する論考は、 認知言語学の目指す方向ととてもよく連動している、というよりむしろ先回りしていると思います。 また、今日のお話しを聞いて、先生の言語と進化にかかわる問題意識は、 認知言語学の問題意識と大変よく適合しています。 先生のリサーチパラダイムを認知言語学の研究プログラムにとり込んでいくことにより、 さらに健全な自然観、学問観を背景とする言語学と関連分野のリサーチが可能になると思います。

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『音と文明』読後感
根岸廣和先生 (株式会社ダイマジック顧問・英国エセックス大学客員教授)

 『音と文明』との出会いは衝撃的。還暦を過ぎ読書の楽しさと苦しさを始めて同時に味わった。何しろ著者渾身の大作、しかも理解力は限られている。「どう楽しみ、どう苦しんだか」。我流で恐縮だが九品仏になぞらえて読後感として述べて見たい。

1.上品: 成る程と感嘆し、楽しんだところ

1.1 上の上: 序:宇宙船『音と文明号』で西欧文明圏脱出

 何と格調高く、陰影と示唆に富んだ序であろうか。あたかも、これから始まる壮大なオペラを端的に表わす序曲にも似た佇まい。音を物質と同等に位置付けようとする訴え。今まで誰もが端的に指摘出来なかった物質文明に対する欠点の明示。物質文明への包囲網を、脳科学を始めとする諸科学を総動員して創り上げて行く見事さ。そしてデカルト流からの離脱は、あたかも地球重力圏を脱出して宇宙空間に飛翔した輝きに似る。
 私も及ばずながら宇宙船『音と文明号』の乗客として、青き地球を外から眺めたくなった。600ページ近い難解な本を読み通すエネルギーを与えてくれた貴重な序である。

1.2 上の中: 結びの論考(P568):

 能の世界にある伝統的人生時計と、サラリーマン社会の人生時計を比較し、自らを前者の世界にあるとする著者のスタンス。何と頼もしいではないか。読むだけで息を切らしながら辿り着いた結びにこの言葉を見出し、自分のエネルギー不足を恥じ入った。
 『音と文明』は今我々人類の前に著者から始めて提示されたばかり。まさにこれから火山列島の盟主として人々の共感を得る仕事が待っている。この気力こそが我々の宝となるであろう。

1.3 上の下: 第九章2節1:『ハイパーソニック・エフェクトの発見』

 これこそ『音と文明』のキングピン。学会等で繰り返されていた不毛の議論は一体何だったのだろう。これもまさにデカルト文明のなせる業であろうか。
 音波と言うものがエネルギーのあり方の一つである事。しかも超音波領域ほどそのエネルギー密度が高い事を考えると、それが生体に何らかの作用をもたらすと考える事自体はごく自然な論理上の帰結のはず。しかも自分自身が英国から音波治療器を持ち帰っているのにも関わらず、そのような発想がまったくなかった。
 いわくセンサーがない、通信路がないと知っている部分だけで判断し、切り捨ててきた自分が恥ずかしい。まさにパラダイムのトラップに捕らえられていた。

2.中品: もっと詳しく知りたい! 知的好奇心をそそられた領域

2.1 中の上: 第9章2節1(P462):知覚外の恵みは、知覚している好みにアドオンされるか?

 上記上の下と同じところであるが、更に知りたい部分もある。最後の3行に記載されている点、すなわちザトーレ達の『音楽を「身震いする」ような応答とともに受容する脳のメカニズムとして報告された所と、高い共通性を示している』との記述が目を引いた。
 これは考えようによっては『知覚外に受信しているメッセージ』対『自分が知覚し、しかも好んで受けるメッセージ』の違いでもある。この場合「ハイパーソニック・エフェクト」がアドオンされるのか、それとも「好み」と言う事で既にモードが替わっている為、超音波領域のアドオンはないのか、に興味がある。

2.2 中の中: 第十章3節1(P531‐3):ハイパーリアル・エフェクトの正体は?

 私なりの表現となるが、『光情報が音情報と同じく超高周波領域の存在で音世界に準じて<脳に優しい環境のグランドデザイン>として検討を続ける事を暫定的、現実的対応としたい』とある点。目対応を企業ドメインの中心に置いていた会社に40年も在籍していた者にとって、この示唆は計り知れないインパクトを持つ。
 個人的体験のみに絞っても、目の解像力以上に細かい電子写真感光体やトナー開発の意義が明らかとなるし、その逆にコンピュータ・グラフィックスへの謂われなき生理的嫌悪感を説明する縁ともなり得る。前者はまさに解像力以上の微細さがもたらすポジティブな例、後者はのっぺりした肌合いがもたらすネガティブな例の見本。何故だ?と思うのは自然であろう。

2.3 中の下: 人類の脳は環境内での物理的存在を感知する能力がある?

 『心ここにあらざれば、見れども見えず聞けども聞けず』と言う言葉がある。逆に言えば『心が望めば、見えないものも見えるし、聞こえないものも聞き取れる』とは云えないであろうか。また視覚の『ハイパーリアル・エフェクト』も同じではなかろうか?但し本来存在しているのに、その場の物理的制約から受け手に到達しない場合は、と言う条件付きで。
 例えばコンサート会場では空気の粘性から超高域の到達域は限定され、指揮者と最前列以遠には可及的に到達し難くなる。つまり天井桟敷はおろか特等席の聴衆でさえも、ハイパーソニック・エフェクトの恩恵に浴せないはずである。
 従って超音波領域専用の分散型PAシステムを導入しない限り、ハイパーソニック・エフェクトコンサート開催は原理上困難となるであろう。それとも恩恵を受けた一部の聴衆がトランス状態となり、伝播するのであろうか。
 しかしCD音で純粋なハイパーソニック・エフェクトが生じない事は既に本書でも明白。脳にはセンサーに依存せず、その環境に於ける音波や空間周波数の物理的存在の有無を判断するメカニズムがあるのであろうか?

3.下品: 勝手な思い込み。 何かのヒントになれば幸せである

3.1 下の上: 第10章3節、人類以前のご先祖様から学びたい事

 生物が海で誕生してから約40億年。遺伝子的にはミジンコも立派な人類のご先祖様である。そして何時の日か革新的な発想を持つご先祖様が海から新たな種として上陸した。
 今、『音と文明』は革新的な発想を提示中。コンクリートジャングルは本来の生存環境ではない。人類本来の環境、熱帯雨林をバーチャルに創り出そうと呼びかけているのだ。
 P543-547にはバーチャル熱帯雨林の具体化提案が複数なされている。しかしこれらはいずれも個体を取り巻く環境に関するものである。
 願わくは熱帯雨林をミクロ領域として外部に持つのではなく、例えば上陸したご先祖様の如く環境を内部に取り込む様な発想を期待したい。

3.2 下の中: 結辞(P552)<本来−適応モデル>は魅力的だが、後天的因子の多い人類にも役立つのであろうか?

 <本来−適応モデル>は魅力ある仮説である。しかし人類の如く文明が個体育成環境の一部として不可欠な種の場合、単に種の生誕環境のみが<本来プログラム>と言うのはやや得心が行かない。この文明と言う一種の亜種生誕にも類する後天的因子も、遺伝子には及ばぬとはいえ何らかの影響力を持っているのではなかろうか。
 イスラエルとパレスチナの悲劇は、互いに自分の文明を相手に否定されている事に端を発している。人は残念ながら自分の育った文明を否定された時点で、どんな価値があろうともそこで思考停止となり易い。
 人類の英知がテロで胡散霧消する危険性のある現代。熱帯雨林環境の復権で、人類の心の闇が非言語的環境の改善により救われる事を願うのは私だけではないだろう。

3.3 下の下: 火山列島方式は企業文化でもある。新文明創出にはマグマの動きが必要

 企業活動は火山列島方式そのもの。企業はグループでの力量発揮が大前提だからである。従って『音と文明』が目指す社会を創造するに当たって、火山列島方式はサラリーマンには十分馴染みのあるシステムである。 しかし地球規模で影響を及ぼす為には、物言わぬ大衆を味方にする事が成否を分ける様に思う。それには火山列島を生み出すマグマの移動が必要ではないか。
 論理では分かっていても腑に落ちないと人の心は動かぬ。大衆の心を動かすには著者の幅広い才能の一つ、芸術がまさにマグマとして役立つのではあるまいか。
 <脳に優しい環境のグランドデザイン>を主役とする芸術作品を山城祥二が世に送り出し、人類を蘇生させるマグマとして活躍する日が近い事を心から期待している。

 
文明科学研究所音と文明>寄せられつつある絶賛の声

 

(C) Tsutomu OOHASHI / Iwanami Shoten
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