物質の世界に必須栄養、例えばビタミンが在るように、情報の世界にも、生きるために欠くことのできない〈必須音〉が存在する。この真実を告げる初めての書となる星のもとに、小著は誕生した。発見者たちの腕(かいな)を揺籃として――。

 科学技術文明の大地に築かれた壮大な物質文明、より正確には物質・エネルギー文明のステージから情報文明のステージがにわかに芽生え、すさまじい勢いで育っている。このふたつのステージは、コンピューターサイエンスや通信技術などが示すように、一見きわめてなめらかにつながっていて境界が存在しないかのようだ。
 では、この観え方は私たちの身を委ねるのに値するくらい信頼できるものだろうか。実は、視る位置や角度を変えていくと、ふたつの文明のステージの狭間には、物質文明の爛熟性と情報文明の萌芽性とに引き裂かれた底知れない断層がいたるところに顕れてくる。ことに、人間生存と環境との関係の中に観えるその落差は衝撃的でさえある。

 物質文明としての私たちの文明は、人間が生きていくために環境から摂取しなければならない化学物資、すなわち〈必須栄養〉を膨大な種類にわたって探り出し、それぞれについて、例えばビタミンB12ならば推奨摂取量(RDA=Recommended Dietary Allowanceアメリカ国立科学アカデミーによる)として一日一人当り百万分の二グラム以上を摂るべしといった途方もなく精密な基準を定めている。そこには、発達と洗練を尽くした文明の究極の姿を見ないわけにはいかない。
 それに対して、情報という環境についてはどうだろうか。
 ここで注目する〈音〉についてみると、地球人類の保健衛生を司る中枢、世界保健機構(WHO)を始めとする各国行政府や公的機関のどこかが「生存のために必要な音」の質や量について基準を定めたという例(ためし)を聞かない。それどころか、このことについて本格的に検討する姿勢をとった形跡さえ、認めることができない。むしろ、「人間生存にとって不可欠な音――あるいはひろく情報――の存在」つまり〈必須情報〉という概念それ自体がなお揺籃期を脱せず、自然科学の概念として公知される以前の認識の段階にある。
 この認識の水準は、物質文明のステージでは、ビタミンのような必須栄養の概念が形づくられるよりも前の段階に当る。それは、壊血病の防止に柑橘類を使い始めた十七、八世紀頃、蒸気機関が登場したばかりの時代まで遡らなければならない。つまり、現時点の情報文明のステージは、音への認識や思想において、物質文明の黎明期に匹敵する未成熟な段階になおとどまっているのかもしれないのである。
 もちろん、音が皆無であっても人間の生存上何の不都合もないことが証明されているならば、この文明の現状がもつ音環境に対する疎放で偏りに満ちた姿勢であっても問題にするには値しない。
 ところが、私たち自身があらためて体制を築き、現代物質文明の精密性や信頼性に劣らない方向のもとに新しい手法を開発しつつ音と人との関係をより厳密に洗い直してみると、そこには想像を絶する驚愕すべき事実が浮かび上がり、既成概念を崩壊させてしまった。
 それをひとことでいえば、音という情報は、ほとんど物質と同じように、私たち人間の躰と心に対してすこぶる強力で、しかも複雑な働きかけをもっていたのである。

 具体的な話題を挙げて小著への招待としよう。私たちの文明は、二十世紀初頭以降、ビタミンや環境化学物質を通じて、まったく知覚できないほど微量の、または無色無味無臭の物質であっても生命に重大な影響を及ぼす場合がありうることを学び、それに基づいて、極微の、または知覚の及ばない領域にわたってまで、物質的環境を整えようとしている。
 ところが音については、その環境中の存在量を測る騒音計自体が、人類に知覚できる周波数範囲20Hz〜20kHzの中の63Hz〜8kHzまで(精密用で16kHzまで)しか対象にしていない(IEC=国際電気標準会議)。いい換えれば、空気振動という環境に対しては、知覚できないものはもとより、知覚されているものについてさえ、そのスペクトルの拡がりのおおよそ半分を無視しているのである。物質環境に対して精緻を極める一方で情報環境に対してかくも疎放な私たちの現状を、後世の人びとは、未開と蒙昧に、もしくは雑駁と鈍感に異ならないものとして糾弾しはしないだろうか。
 これについて私たちは、情報環境学や脳科学を始め物質文明と情報文明とを架橋する諸科学を動員してこれまでとは違う方略によるアプローチを試み、その過程で驚くべき真実に出逢うことになったのである。
私たちが新しい手段で地球各地から収集した美しく快い自然音の中には、人間に音として聴こえる周波数上限を何倍も上廻る超高周波成分をもつものが珍しくない。しかも、私たち自身の実験から、そうした非知覚成分を含む音によって脳幹、視床、視床下部を含む脳基幹部の活性が歴然と上昇することが発見された。
 脳基幹部とそれを拠点にした神経ネットワークは私たちの心と躰を制御する中枢であり、ここを活性化する知覚を超える高周波に富んだ音の効果は,物質レベルでみるビタミンや微量元素さながらで、まさに〈必須音〉と呼ぶにふさわしい。反対に、文明化に伴う音環境質の変異によってこの活性化因子が欠乏すると、脳基幹部の活動は低下をまぬがれえない。それは、あたかも必須栄養の欠乏のように、私たちの心身に重大な障害を導く恐れがあることを告げる。実際、これについては生活習慣病、心身症、精神と行動の障害、そして発達障害など、現代社会を脅かす文明の病理との関連が濃厚に疑われるのである。
 しかしこうした知見は、観方を換えれば、〈必須情報〉に恵まれた音環境を再構築することによって文明の病理から解放される展望を私たちが手にしたことを意味するものでもある。その展望の百花繚乱を描き出すことこそ、小著の主題に他ならない。
 ただし、私たちはそれに先だって、情報世界を「知覚できる領域」に限定し、その中から言語記号性の明示的情報だけを抽出して市民権を与えてきたルネ・デカルト流の近現代の発想から、離脱することを計らなければならない。ここにも、まさに万花繚乱の展望をかいまみることができる。これが、小著のもうひとつの重要な主題となっている。

 音の環境を美しく快い本来の姿に甦らせようとする私たちの志は、このようにして、近現代文明そのものの限界を克服し、新しい文明の地平を拓くことと同一化していくのである。


文明科学研究所音と文明>序

 

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